遠きにありて秋田を思う「企業戦士」たち 秋田産業サポータークラブ 藤盛紀明会長

東京に、「秋田産業サポータークラブ」という団体があります。秋田県出身で東京で活躍されている方たちが、ふるさと秋田のために何かできることはないかと集まり10年余り前に結成されました。インターネットで検索していて、たまたまその実績をまとめた記録を目にしたとき、「おお秋田の先輩たち、頑張っているではないか」と嬉しくなりました。ただ、偉い人じゃないと入れない雰囲気があってなかなか近よりがたかったのですが、勇気を奮って会長の藤盛紀明さんに取材をお願いしました。

「十数年前、知り合いの経済産業省の佐藤文一さんが、秋田県の産業労働部に赴任したんですよ」と藤盛さんは産業サポータークラブ設立の経緯を話し出されました。佐藤さんは県が支援して設立した『秋田ウッド』という新しい会社の製品の販売を手助けすることになったのですが、なかなか売れません。そこで彼は社長を連れて東京の建設会社にいた藤盛さんを訪ねてきたのだそうです。

話を聞いて藤盛さんは、当時役員をされていた清水建設が手掛けていたビルに秋田ウッドの製品を使うよう持ち掛け、さらに製品の認証を取って大手ゼネコンのあらゆる建設現場に納入できる道筋をつけたのだそうです。これをきっかけに、東京には各方面で活躍している秋田人がたくさんいるのだから、その力をもっと秋田のために使ってもらえるような仕組みを作ろうではないかということで、佐藤さんと藤盛さんが産業サポータークラブを立ち上げたのです。

藤盛さんは、大館のご出身。清水建設常務執行取締役技術戦略室長兼技術研究所長を務められ、退職後、さまざまな活動に精力的に関わってこられましたが、その中でも力を入れておられるのが秋田産業サポータークラブだそうです。

食と美と健康ワーキンググループ

現在サポータークラブには7つのワーキンググループ(WG)があります。①秋田県内の企業と、首都圏の企業をつないだり、人材育成を支援する「企業振興育成WG」、②秋田県と首都圏の文化芸能分野の連携プロジェクト「夢づくりWG」、③現在は大館市の「歴史まちづくり」の支援を中心に活動している「地域連携観光振興WG」、④首都圏在住の方々に北東北の歴史を紹介し、北東北 への観光誘客などを図る「北東北歴史懇話会」、⑤地熱や温泉水など国産の再生可能エネルギーである 地球熱の有効な利用方法を検討する「地球熱利用・地 域振興WG」、⑥環境性・安全性をテーマとした中層木造校舎への 秋田杉の活用、秋田に放置された空家の再活用などを模索する「秋田杉活用と地域活性 化WG」、⑦秋田ならではの資源である食・温泉・自然・文化・ 伝統などをもとに、「美と健康」関連ビジネスを創 出する「食と美と健康WG」。

これまでの産業サポータークラブの成果として、藤盛さんが真っ先に挙げられたのは、横手市増田町の商家が家の中に作った立派な「座敷蔵」の観光資源化でした。増田町は江戸時代以前から物流の拠点で、養蚕や葉タバコ生産も盛んでした。街の中心には立派な商家が立ち並び、その家の中に作られた美しい内蔵(うちぐら)は知る人ぞ知る存在ではありましたが、観光客の目に触れることはありませんでした。

今のように多くの家が内蔵を見せてくださるようになるまでには、サポータークラブの副会長だった新谷和弘さん(故人)の並々ならぬ熱意があったそうです。「最初は誰ひとり見せると言ってくれませんでした」と藤盛さん。見せてくださっていたのは、レストランと売店を営業する建物の内蔵を展示室にしていた稲庭うどんの「佐藤養助」だけだったそうです。

新谷さんは、横手市十文字町にある「まんさくの花」の蔵元、「日の丸醸造」の佐藤譲治社長を通じて、家々の蔵を見せてもらい、観光資源として非常に価値があると考えました。それに地元の観光協会にも非常に熱心な方がいらっしゃったそうです。新谷さんは増田町に通い詰め、その観光協会の方と二人三脚、数年がかりで所有者の説得に当たりました。それでもなかなか「うん」とは言ってくれない。そこで、サポータークラブの皆で金を出し合って「蔵の基金」というのを作り、これを増田町でお使いくださいと提供したのです。「そうしたら急に動き出しました」と藤盛さんは愉快そうに笑いました。

今では増田町の多くの家が蔵を公開している

次に新谷さんは秋田県のすばらしい建物をすべて洗い出しました。こうした建物の持ち主は、けっこう皆、大変なのだそうです。国の有形登録文化財になったのはいいが、保存に手間も費用もかかるのにお金が付いてくるわけではないのだそうです。そこで、藤盛さんは新谷さんに『登録有形文化財建造物所有者の会』というのを作るよう提案しました。全国にも同じような会が幾つかあり、今もけっこうな頻度で会合を開き、情報交換をしたり、補助金をもらう活動をしたりしているそうです。

サポータークラブはそもそも、東京で活躍している秋田にゆかりの人たちが秋田に対し「意見を具申する」ことを目的に始まりました。各WGに県の職員も付きました。しかしWGで、こういうことをやりたい、ああいうことをしたいと言っても、なかなか実現できない。藤盛さんは、具体的に物事を動かすのは、自治体、商工会議所、議会そして個人だということを痛感したそうです。要は地元にいる熱心な個人と、それをバックアップする市町村なのです。そう思い至ってからは、やり方を変えて、秋田県内に張り付いて活動しようということになったそうです。「全部自腹ですよ」と藤盛さん。秋田産業サポータークラブの皆さん、故郷のために、よくぞ、そこまで・・・。ありがとうございます!

新谷さんはそれとほぼ同時に、最盛期には日本一どころか東洋一といわれる産出量を誇った湯沢の院内銀山の歴史の調査にも取り組みます。これには秋田大学鉱山学部出身で三井石油開発の専務取締役を務めたサポータークラブの佐々木詔雄さんが熱心に活動しました。鉱山関係の同級生を総動員して、最終的には院内銀山に日本のジオパークの認定をもらいました。今度は世界のジオパークにすると意気込んでいるそうです。院内銀山には招聘した外国人技術者が住んでいた「異人館」があるのですが、ここの管理をしている女性も熱意に溢れた方で、しゃかりきになって取り組みました。佐々木さんは、そばにあった奥様の実家に「居ついてしまっていた」そうです。最初は距離を置いていた湯沢市も、ジオパークの認定が下りると、市の「何でもやる課」に「ジオパーク係」を作り、今ではウェブサイト情報も旅行ガイドブック顔負けの充実ぶりです。現地に出向くことの重要さが分かる一例です。

藤盛紀明さん。秋田県東京事務所でのインタビューだったので、県のマスコット「スギッチ」と横手のかまくらも一緒に

藤盛さんが県の産業エネルギー部会のメンバーになられたことも、サポータークラブの大きな転機だったそうです。その後、部会長を務め、さらに地方創生有識者会議の委員にもなられました。現在は、その役割をサポータークラブの幹事のおひとりでコンサルタント会社を経営される喜藤憲一さんが引き継いでいます。藤盛さんは「サポータークラブで話したことを県全体の産業政策に反映できるようになりました。県の政策になればカネも付くし、人も付く。市町村も動きやすくなりました」と話されました。

サポータークラブは発足当初、企業の部長・役員以上とそうでない人を区別していたそうです。しかし、今は秋田の産業のために何かしたいという人は、メンバーの推薦を受ければ加入できる仕組みになったそうなので、WE LOVE AKITAの編集部も入れていただきました。

7つのWGの中で、最も重視しているのが、企業振興育成WGだそうです。秋田に既に存在している企業の活性化です。藤盛さんは現役時代、東京の仕事を受注したいという秋田の企業のため、経営者を連れてさまざまな企業を回られたそうです。そうするとだいたい「仕事をお願いしましょう」と言ってくれる。しかし、それから1年ぐらいたって、その経営者に「仕事は来たか」と聞いたら、だいたい「来なかった」というのだそうです。「どうも、ただじっと待っていたらしい」と藤盛さんは笑いました。営業というものが分かっていないと思われたそうです。それでも必死で幾つかの契約をまとめたそうです。ただ、その経営者たちが、そのあと続けて仕事をもらうために顧客の元に足を運ぶということもなかったのではないかと思っているそうです。

そこで一転、藤盛さんたちは東京にいる秋田人に目を向けました。秋田に帰って仕事をしたいと思っている人や、何となく秋田をこのままにしておけないと思っている人に「秋田に帰ろう」というモチベーションを持ってもらえないかと考えたのだそうです。そうした発想から生まれたのが、東京での「あきた寺子屋」の開催です。2012年から年1回、秋田にゆかりのある企業の幹部や秋田に帰って自分でビジネスを始めた方を招き、講演やパネルディスカッションを行っています。今年も12月2日に開催されます。(詳細は追ってお知らせします)

「あきた寺子屋」のチラシ

次に藤盛さんが挙げられたのは、夢づくりWG。これは劇団わらび座の山川龍巳社長が中心になっています。ものすごく事業意欲がある方だそうです。わらび座を核にして秋田県を発展させるようなことができないかと考えておられるそうです。

藤盛さんは、アメリカに赴任されていた時、ディズニーのテーマパークの経済効果に驚きました。フロリダ州のディズニーワールドは、その周辺にホテルだけでなく退職者の住宅が広がり、ショッピングモールができて大きな町になっていたのです。わらび座の山川社長は、田沢湖の近くの秋田芸術村を、そんな存在にしたいと考えてほしいと言っています。わらび座は愛媛県の「ぼっちゃん劇場」で大成功しています。山川社長は子供の教育にも大変関心を持っいます。そうしたところから藤盛さんはわらび座(秋田芸術村)がタイやインドネシナなどアジアの国々から子供が来て学ぶ場所になってほしい、秋田芸術村が世界の教育レジャーランドになってほしいと思っているそうです。藤盛さんは、小坂町の「康楽館 」も、そうした核になりうる存在だと考えています。また、秋田には竿灯や西馬音内の盆踊りといった伝統的なお祭りや芸能がたくさんあります。しかし、すべて年一回です。これをカネが集まる仕組みにしたいと思っているそうです。

また、大館市が今年、国土交通省の推進する「歴史まちづくり」に認定されたのを受け、産業サポータークラブとしては竿灯などで秋田を訪れる人たちに秋田の歴史を知ってもらえるように支援したいと考えています。

秋田には、中学や高校の教科書に出てくるような歴史はあまりありません。ですが、縄文遺跡が残っているのですから、掘り起こせば面白い歴史がいろいろあるのです。藤盛さんに「平泉の藤原氏が実は秋田の清原氏なんだということは知っていますか?」ときかれてびっくりしました。あの有名な中尊寺の金色堂を作った奥州藤原氏です。いや知りませんでした!915年の十和田噴火が今まで日本で起こった噴火で一番大きかったというのも初めて聞きました。さらに藤盛さんに「アテルイ(阿弖流為)という人を知っていますか?」ときかれ、ますます目をシロクロさせてしまいました。すいません、何も知らなくて。アテルイは、なんでも平安初期の蝦夷の指導者で、各地の豪族と戦い連戦連勝、征東将軍紀古佐美(きのこさみ)軍も破りましたが、征夷大将軍坂上田村麻呂との長い闘いの後に休戦、田村麻呂とともに京都に交渉に行ったのですが、都の貴族の意見により河内国杜山で処刑されたそうです。アテルイの処刑後も、八郎潟から北の秋田県人は秋田城の苛政と戦い何度も勝利を収めたそうです。藤盛さんは「北秋田の人々はアテルイよりも強かったのです」と胸を張りました。藤盛さんは10月21日にも大館で「佐竹氏と浅利氏は源氏の新羅三郎義光の子孫」と題して、大館と山梨県中央市の関係を掘り下げる研究会を開催されたそうです。関東以北はすべて蝦夷とひとまとめにされていた時代、人口も少なく、戦いといってもきっとたいした規模ではなく、「勝った」、「負けた」なんていうのはどうやって決まっていたのだろうと、にわかに大昔の日本の姿に興味がわいてきました。

美・食・健康WGの委員長は昭和薬科大学の教授をされていた千葉良子さん

地熱の活用では、植物栽培などを研究したりしているそうです。また、利用できる天然秋田杉は今では古民家にしか残っていないため、建物を解体した時に「天然秋田杉」をもらい受け、認定書を出したり、それを使って木工職人が製品を作ったりしているそうです。最近、WGメンバーの木工職人の湊哲一さんが能代市に帰ってイベントを行ったり盛んに活動され始めたそうです。最近の秋田杉を使った建造物としては大館の樹海ドームがあります。大きなドームですが秋田杉を使っているのです。これは、竹中工務店が施工しました。秋田杉のWGの委員長をされているの最上公彦さんの会社で、樹海ドームは最上さんが担当しました。最上さんは非常に秋田杉に愛着を持っておられるそうです。

この点では、美・食・健康WGの委員長の昭和薬科大学の元教授、千葉良子さんも負けていません。杉の抗菌作用に注目、秋田杉のエキスを使って口腔ケアのジェルなどの事業化を検討しています。学者さんですが、どこの企業も引き受けないなら自分で会社を作ろうという意気込みです。

藤盛さんのお話をうかがって、東京で活躍されている秋田人の多くは故郷に強い愛着を持ち続けているのだということが分かりました。ここに集まっておられる方はごく一部で、ほんとはもっともっとたくさんいると思います。しかし、東京でいくら熱心に議論をしても地元にそれを受け止めてくれる人がいないことには何も実現しないのだということも分かりました。でもきっと秋田にも熱い人がいっぱいいるんです。秋田の熱い人たちを東京の熱い人たちとつなげるため、WE LOVE AKITAも頑張りたいと思いました。

(2017年11月7日)

▼文:竹内カンナ

秋田市出身。WE LOVE AKITA 記者。米経済通信社で長年、日本の金融経済のニュースを幅広く担当したあと、現在は 米経済紙の日本語版の翻訳のかたわら、秋田の活性化について考え続けている。

▼写真:照井翔登、渡部みのり