「ちんちん先生」こと 仙北市の赤ひげ 市川晋一先生 

「ちんちん先生」

このちょっと気恥ずかしいあだ名が、市川晋一先生(68)はことのほかお気に召しているようです。著書の「医心伝心」の表紙にも入っています。

保育園の健康診断に行ったとき、以前、おちんちんに炎症を起こして診療所で診てあげた男の子が「あ、ちんちん先生だ!」と叫んだのがきっかけ。いかにも地域のお医者さんらしいエピソードです。

話している間もずっと目が笑っていて、いつも何か楽しいことを考えていて人を笑わせる機会を狙っているかのようでした。

市川先生は仙北市西明寺診療所の所長さん。角館駅から10キロメートルぐらい北に行った山に囲まれた田園地帯にある診療所です。

先生をお訪ねしたのは、仙北市の「温泉浴マイスター」という仙北市の制度についてお話をお聞きしようと思ったからでした。秋田県には温泉が数えきれないほどありますが、世界には温泉があまりない国もありますから、温泉を科学的に説明すればもっとたくさんの国々から観光客が来てくれるのではないかと思い、温泉浴マイスターのテキストを英訳してみたいと思ったからです。

でも、市川先生のお話を聞いているうちに、こんなにも地域のために尽くしている素敵なお医者さんが秋田にいるんだと思い、まずは市川先生のことをご紹介したくなってしまいました。

秋田大学医学部の4期生で昭和54年(1979年)卒。兵庫県姫路市のご出身ですが、卒業してすぐ大曲の仙北組合病院(現大曲厚生医療センター)の泌尿器科の科長になりました。仙北市に懇願されて今の西明寺診療所に赴任したのは2000年。あの日本一大きな栗が名産の西明寺です。

大きいでしょう!ただ、この写真、ちょっとズルして子供に栗を持ってもらっています (笑)

市川先生は、高校生の時に信州の佐久総合病院の若月俊一先生の「村で病気とたたかう」を読み、学生時代から佐久病院や県内の人口の少ない地域の病院で研修をしました。老後はこうしたところの医者をやろうと決めていたのですが、その予定を少し早め50歳前にこの町にやってきました。

先生のご専門は泌尿器科ですが、診療所にはいろんな病気の人がやってきます。そして基本、365日24時間対応

先生の著書「医心伝心」には、夜中におばあさんが雪の中の自宅にやってきて戸をどんどんと叩いて往診を求め、家に行ってみると雪が吹き込む寒い家の中で電気毛布と掛け布団4枚かけて亀のように首だけ出して寝ているおじいさんがいて、室温は点滴の液が凍ってしまいそうなぐらい寒く、胃潰瘍と診断して病院に運んだら、手が足りなかった病院で診察のお手伝いをしました。真冬の往診途中、峠でホワイトアウト状態になって車の運転をしていた奥さんが「私たちの命も危ないかも」とつぶやかれたというエピソードが載っていました。いや、大変な仕事です。

このエピソードにも奥さんが登場しましたが、先生がこれだけ、地域に尽くせるのは家族の理解と支援があればこそ。奥さんは看護師をされていたこともあり、先生の右腕のような存在。往診や診療所での手助けだけでなく、仙北市が住民のために催すさまざまな催しにも関わっているそうです。先生も、「へき地の医者は、周りから感謝されもするが、家族はほんとに大変だ」と常に奥さんへの感謝を忘れません。

私が診療所を訪問したときも、アイスコーヒーは、「うちの妻が入れた特別おいしいコーヒーです」といって出してくださるし、スリーLの大きなサクランボは、「妻が今朝、湯沢に行って買って来ました」というし、その上、特上のメロンまでごちそうになってしまい、その心遣いに感激しました。普通そこまでします?どれか一つでも嬉しいのに。とにかく奥さんは先生が大好き、先生も奥さんが大好き、いい夫婦だなあと思いました。(ごちそうになったからではありません!)

仙北市で、こんな心豊かな暮らしをしているのですね! 少し付け足しておきますが、先生が来られてから、この診療所は黒字化したそうです!これもローカルな診療所としてはすごいことです!!

先生は西明寺診療所だけでなく、桧木内診療所でも週2回診療しているほか、田沢湖病院や長く勤められた大曲の病院でも休祭日に診療されています。その上、仙北市の住民健診に立ち合い、秋田県の大きな社会問題の一つの自殺予防のための活動に協力され、予防接種や地域ぐるみの高齢者のサポートにも手を貸すなど、保健行政にも全面的に協力しています。

さらに新聞にコラムを書いて分かりやすく健康知識の普及に努め、温泉浴マイスター制度を作り、温泉の正しい入り方を広め、温泉事故の防止にも貢献しています。

仙北市に「温泉浴マイスター」というのがあるよ、と聞いた時は、観光振興やヘルスケアブームに乗って地域の資源である温泉に焦点を当てたい仙北市主導のプロジェクトと思ったのですが、ちょっと違ったようです。この制度ができたのは、温泉大好きな人たちが毎年何人も温泉の事故で亡くなることに胸を痛め、お風呂の事故を減らしたいと考えた市川先生が温泉の正しい入り方を多くの人に知ってもらいたいと思ったことがきっかけなのだそうです。全国で毎年、お風呂での事故で亡くなるのは1万7000人と交通事故の2倍ぐらいにのぼります。

温泉旅行というと、長時間バスに揺られて夕方に着いて、温泉に入って、出たと思ったら宴会でごちそうを食べ、さんざんお酒を飲んで、また寝る前に温泉に入る、こんな感じ? 温泉につかりながら日本酒をちびちびというのは呑兵衛たちの夢。

しかし、これが健康によくないのです!「そんなこと知っている」と思ったあなた、分かっていながら、ついやっていませんか?その上、熱い温泉は体にいいと思って我慢して入っていたりしませんか?

熱いお湯に30分も入るのは、とてつもなく健康に悪いのだそうです。人間の神経には交感神経と副交感神経があり、熱いお湯に入ると交感神経が刺激されて、血管がキュっと締まり血圧が上がり、出ると副交感神経が活発になり、血管が広がって血圧が下がる。お風呂の出入りで血圧が大きく上がったり下がったりするのです。

朝、仕事前に熱いシャワーを浴びるのはいいのですが、お酒を飲んで熱いお湯に長時間入るのはよくないそうです。

それに、お湯に入ると浮力で体が軽くなり、湯から出た時にふらつきやすい。そのうえ床が濡れて滑りやすかったりするので転倒事故が起きやすい。夜中にひとりで入っていて頭を打って気を失ってしまうと大変です。ま、若いうちは血管も柔軟で足腰も丈夫なのでいいのですが60歳を超えたら要注意です。

お湯ではないですが、熱いサウナも長く入るのも同じように危険だそうです。テレビで、サウナの国フィンランドで、サウナから出てすぐに冷たい水に飛び込んだりするのを見て、心臓大丈夫かなどと心配になったことがありますが、やっぱりフィンランドでも、人口550万人の国で毎年50人ぐらいがヒートショック(医学用語ではサーモショックというそうです)で亡くなっているそうです。

ですから、家で入浴する時も、脱衣場や浴室をよく暖めなければいけません。(まあ、これは最近、ほぼ常識かもしれませんが、高齢者の住んでいる家で、この対策がしっかりできているとはいえません)

温泉地の事故には、地面から吹き出す硫化水素によるものもあります。温泉地のガスなので硫化水素もあの卵の腐ったような硫黄臭がしたり、息が苦しくなったりするのかとなんとなく思っていましたが、実は無臭でしかも何かおかしいと思う前にもう意識を失ってしまうので、非常に危険なのです。そうした危険のあるところでは、宿の人が毎日、硫化水素の濃度を計っているそうですが、それでも毎日出るところが変わり、思わぬところで事故が起きるので、「立ち入り禁止」と書かれているところには絶対に入らないようにしましょう。

温泉成分の効果は10種類に分類され、塩が入っていると体が温まるとか、二酸化炭素は血管が拡張して血行がよくなるなどとされています。「美肌の湯」とか「美人の湯」などというのは言ったもん勝ちで問題ないですが、「がんに効く」などというとアウトなのだそうです。

以前から不思議だったのが、ラジウム温泉。放射線が「健康にいい」といってたくさんの人がラジウム温泉を訪れます。でもこれって体に悪い放射線とどう違うのでしょうか?

市川先生は岡山大学附属病院があった三朝(みささ)温泉温泉療法医の資格を取りました。そこの温泉はラジウムで、キュリー夫妻の銅像が立っているそうです。岡山県では人形峠でウランが生産され、その残土から放射能が出るというので、近所の人がその土と三朝温泉のラジウムの入ったお湯を混ぜてレンガのようなものを作ってそれをタオルに包んで体に当てると病気が治るといわれていたそうです。さすがにその後、これはまずいということになり、今はないそうですが。

仙北市には玉川温泉があり、そこの北投石から発生する放射線はがんに効くと言われ、全国からがん患者が訪れます。低用量の放射線が体にいいという学説があり、「ホルミシス効果」と呼ばれているそうです。しかし医学的に証明されたものではなく、市川先生は、天の川がみえる星空を見ながら自然の中で日常のストレスから離れ規則正しい生活をすることによる転地療法の効果なのではないかと思っているそうです。アトピーが治るとも言われているそうですが、これは、強酸性のお湯によって皮膚がただれて一皮むけることによってだったり、細菌が死んでしまうためだそうです。子どもがギャーギャー泣き叫ぶほど強烈な治療法ではありますが、これは医学的に説明可能です。

仙北市では、温泉浴マイスター人材育成講座を開いてマイスターを養成しています。環境省がまとめた温泉成分10種類のうち、仙北市にはなんと8種類があるそうなので、観光客や住民に温泉について学んでもらって事故を防ぎ、温泉を楽しんで健康になってもらいたいのと同時に、宿泊施設で働く人たちにも温泉の知識を身に付けてもらい、訪れた人たちに丁寧に効果を教えて上げたり、事故が起きないようにさりげなく注意して上げたりということを期待しているそうです。最初の試験はとても難しくて、ほとんどの人が零点だったのだそうですが、たくさんの人に受けてもらいたいと思い、今は3時間ぐらい勉強して、マルバツ式でほぼ全員合格できるそうです。

また、仙北市は、高齢者の健康増進のために温泉プールで水中運動教室を行ったり、秋田大学整形外科の監修を受けて「温散歩(おさんぽ)MAP」というパンフレットを作り、ウォーキングのやり方や、周辺のお散歩コースを紹介もしているそうです。今年は、韓国語版、中国語版も作るそうです。

しかし、車がないと参加が難しく、高齢者をどう外に連れ出すかというのも頭の痛い問題です。この交通の問題は秋田県が全国ワースト1の自殺の問題とも絡んでいます。仙北市では農薬を飲んで自殺を図る人がいるのですが、治療には体内の血液を浄化する透析を使うため、泌尿器のお医者さんである市川先生にとっては他人ごとではないのです。

あるおじいさんが自殺しました。その家のことは市川先生も前から知っていて、「仲がいい家族だなあ」と思っていたそうです。ところが、ある日、いつもと同じようにみんなでわいわいやっていたら、いつのまにかおじいさんがいなくなっていて、納屋で農薬を飲んでいたのだそうです。

秋田県の自殺というと、孤立した高齢者が、「友達もみんな死んじまったし、車の運転ができないから外にも出られないし、何も楽しいことがない」と思ったり、ちいさなコミュニティーの中で人間関係が濃密すぎて追い詰められたりといったようなことを想像していましたが、それだけではない。家族がいても家族の中で自分の役割がない、居場所がないというような思いで命を絶ってしまう人たちがいるそうです。市川先生は、そういう人たちの居場所を作るというような活動にも協力されているそうです。

地域のお医者さんの役割というのはほんとに大きいし幅広い。やるべきことはたくさんあるけど先生は一人。なので、仙北市は市川先生が過労死してしまわないように気を配っています。市川先生のようなお医者さんはとても少なく、多くの地域が医師不足に悩んでいます。しかし、ある秋田の自治体では、ようやく来てくれた医師を陰口を広めて追い出してしまったという話がネットで広く知れ渡り、それがさらに医師の確保を難しくしているという話も聞いたことがあります。また、医師の世界では、最先端の医療を研究する医師が尊敬され、地域の医療に尽力する医師は軽視されているそうです。

わけがわからない・・・。

市川先生、これからも仙北市のために頑張ってください!

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後記:そうそう、先生の研究テーマは、ほかにもいろいろあるんですが、「秋田美人」もその一つ。秋田には色白な人が多いと言われますが、それを科学的に実証した論文と、世界中の多くの人が感染しているJCウィルスの型が人種によって異なることを手掛かりに各地の人の尿を集めて調べることによって秋田の、特に沿岸部の人は白人に近いと推論している論文を読ませていただきました。

先生が読売新聞に書いたコラムをまとめた「医心伝心」は、地域医療にかかわるテーマを分かりやすく、なおかつ体系的に網羅しているので、一般向けエッセーとしても面白いし、地域医療に興味のある方にもためになる本です!

文・写真:竹内カンナ