9月13日、秋田文化会議が渋谷区のスマートニュース本社で開催されました!この会は読売新聞特別編集委員の橋本五郎さん、多くの舞台やドラマで活躍されている女優の浅利香津代さん、病気の家族を支えながら企業戦士として奮戦した自伝やリーダーシップについての著書を次々に出版されている佐々木常夫さんが世話人を務める文化にフォーカスした秋田人の集まりです。約30人が出席しました。
今回のゲストスピーカーは、全国で注目の国際教養大学(AIU)の勝又美智雄名誉教授。国際政治経済の講義をする一方、発足当初から初代学長である故中嶋嶺雄学長を支え、さらにはあの有名な図書館の館長も務められました。歯に衣着せぬストレートな語り口でAIUの誕生秘話を語られました。
ミネソタ州立大学が撤退することになったとき、国際的な人材を育てたいという当時の寺田典城県知事の強い思いを聞き、たまたま文部科学省から副知事として赴任していた坂東久美子さんが、新たに発足する大学の要となる学長として中嶋先生を強く推されたのだそうです。
しかし、そのとき中嶋先生はまだ東京外国語大学のバリバリの学長。先生はすぐゼミの卒業生で日本経済新聞の記者だった勝又さんにこの話をどう思うかと聞いたそうです。勝又さんは、「絶対に引き受けてはいけません。100%失敗します」と進言しました。しかし、寺田知事は引き下がらなかった。何度も何度も足を運び、とうとう中嶋先生を口説き落としたのだそうです。中嶋先生は学者として、教育に高い志を持った方でした。AIUは、中嶋先生があのとき学長を引き受けてなければ100%失敗していたであろうことはおそらく衆目の一致したところだと思います。
寺田知事は県議会では過半数の支持を得ていなかったので、議会工作も簡単ではなかったそうです。しかし、国際的な人材を育てるという目的に賛同する自民党系議員を味方に付けて何とか発足にこぎつけました。
それにしても、なぜ、県民のパスポート保有率が全国で一番低い秋田県で、英語で授業をし留学が義務付けられている大学がうまくいったのでしょうか?キャンパスはとんでもない山の中だし。
勝又さんは、教員の人事権を学長に持たせたことが非常に重要だったと考えています。普通、日本の国公立の学校では教官の人事権は国や都道府県にあります。教職員は公務員になるので、いったん採用されれば教育や研究に優れた業績がなくても定年まで身分は安泰です。しかし、国際教養大学は、教官との雇用契約で学長に任免権を持たせました。期間は3年間、年俸制で毎年さまざまな項目について評価をする仕組みを作りました。そして最初の3年がたったとき、なんと36人の教官のうち12人に辞めてもらうことにしました。そのうち11人はミネソタ州立大学時代からの米国人でした。彼らは英会話を教えればいいと思っていて、学生に学問的訓練を課すようなレポートを書かせることが少なく、自分で研究論文を書くこともあまりしない人が多かったのだそうです。
大量の英文を読み、英文レポートを書かせて鍛えるという中嶋先生の方針に合わせようとしなかった先生たちに辞めていただいた後に教官を公募したところ非常に優秀な先生たちが集まったそうです。こうして先生たちが厳しい評価の目にさらされることでいい授業が増え、学生の質も上がり、好循環が始まりました。
ちなみに勝又さんは大分県人。秋田に対してはずいぶん手厳しい意見もお持ちなのですが、お嫌いではないようで、12年間、単身で秋田に住まわれました。記者出身でお酒が強いので、アルコールが苦手な中嶋先生に代わって秋田の人たちとの関係づくりや折衝のためにノミニュケーションを一手に引き受けました。日本社会ではどこでもそうですが、これは秋田では特に重要性の高い役回り。勝又さんは最初の家は川反からの距離を考えて決めたほど。それを楽しんで精力的にこなせる人がいたことも国際教養大学が成功した理由なように思います。
勝又さんのお話は秋田県庁も佐竹知事もバッサバッサとなで斬りで非常に痛快でした。秋田文化会議出席者の中には県庁の方もいらしたので、司会の佐々木さんもハラハラされたようです。(佐々木さんもなかなか率直な方ですが・・・)勝又さんの国際教養大秘話は30分ではとても終わらず、グローバル人材の育て方についてはほとんどお聞きすることができませんでした。また別の機会に聴いてみたいと思います!
勝又さんに続いて、WE LOVE AKITAの照井翔登くんが、われわれの活動についてお話をしました。WE LOVE AKITAは2008年に大学生ふたりが立ち上げ、今年で10周年。物販をしてみたり、飲み会を開いたり、その時々のメンバーがいろんなことにチャレンジしてきました。キャッチフレーズは「わげもんが変わる!」。首都圏にいる若者たちがふるさと秋田を変えようという気持ちで集まったのですが、若者はじっとしていないものなので、次々と代表が変わり照井くんで4代目。今もメンバーは、3.5人ぐらい・・。ミーティングもほとんどなく、NPOでも会社でもなく、ただの個人の集まりです。なので身内ではありますが、敬称をはずすのもなんだかな、という感じでここでも「照井くん」と呼ばせていただきます。しかし、何かやろうと思えば声を掛けられる緩い連携で、(たぶん)たくさんの人とつながっているとは思います。
照井くんは、「若者と先輩がた、官と民をつなげて何かをやりたい人を応援していく仕組みを作りたい」という話をしました。秋田は、何か現状を打破して新しいことをやろうという人に冷たいところがあります。「足を引っ張られる」という人もいます。しかし、若者が何かにチャレンジしようというとき、周囲の知恵や経験のある人、お金のある人、人脈のある人が必要に応じてそれぞれの強みを生かし手を差し伸べるという「挑戦を称賛する文化」を作っていきたいと考えています。具体的に何をやりたいかというところは、まだこれからなんですけどね!(笑)
3番目に登壇したのは、イオンタウンの藤原直人さん。イオンタウンは秋田市の外旭川にものすごい施設を作ろうとしています。藤原さんは「多くの人が御所野のイオンのようなものと思っていますが、そんなものではない!全国に2つとないものを作ろうとしているのです」と話されました。
ショッピングモールはごく一部で、秋田の文化やグルメ、名産品などを知ることのできるゾーンや健康や生活のゾーンなど5つのゾーンを作り、秋田の粋を集めた「オール秋田」なものにしたいというのが、この計画を10年以上温めてきた秋田市新屋出身の大門淳会長の夢です。海外からの観光客も含めた多くの人々に秋田を体感してもらえる場所を作ろうとしているのです。9月初めには、従来の計画を修正し、全国最大規模のCCRCの計画も盛り込みました。高齢者が500人規模で住む居住区域を加えたのです。イオン・グループの岡田卓也会長も秋田に来てこの計画を支持する秋田市議の会に協力を要請したそうです。秋田市の中心にCCRCを作る計画を推進した穂積志市長などは強硬に反対してきましたが、少しずつ応援団が増え、情勢に変化がみられると藤原さんはおっしゃっていました。
次に、世話人を代表して橋本さんが「最近感ずること」を話されました。読売新聞9月8日付のコラムに沿って、金足農業高校のことから、「スポーツの宝」について、そしてどんな逆境にあっても諦めず全力を尽くすことの大切さを強調されました。ただ、ピッチャーの吉田輝星くんばかりが注目される風潮に少し懸念を感じ、「ヒーローを吉田だけにしてはいけない」とことあるごとにおっしゃっているそうです。支えてくれる多くの人たちがいてこそヒーローが生まれるのです。ほんとそうだと思います。
支え合うことの重要性という話から、橋本さんは世代間の助け合いに話を転じました。今は高齢者がお金を持っている、だが彼らはお金を使わない、必要とも思っていない。一方、若い人たちは使いたいことはいっぱいあるのにお金を持っていないーー。橋本さんは、テレビなどで、亡くなったおかあさんを引き合いに出し、おかあさんだったら、「わたしたちは昔、苦労したからお金なんていらない。若い人たちが大変だから若い人たちに上げてください」というだろうと話し、高齢者は若い人たちのためにお金を使いなさいと訴えているのだそうです。家族の間では上の世代が下の世代を助けるというお金の流れがありますが、そうした流れがもっと広がる必要があります。官民を問わず、世代を問わず、幅広い人たちが若い人を応援してくれる仕組みを作りたいというWE LOVE AKITAの思いと響き合うものを感じました。
秋田文化会議は今年で10年目。橋本さんは、廃線に瀕していた秋田内陸縦貫鉄道の存続を目指し、県と協力してツアーを催したりシンポジウムを開催するなど具体的な目的を掲げ行動していた発足当初の歴史を振り返り、秋田文化会議は今また原点に立ち返り、具体的な目標を定める必要があると述べました。その上で、「よけいなことからもしれないし、単なる郷愁かもしれないが」とおっしゃりながら、八郎潟の残存湖の水質を改善したいという思いを語られました。
その後は、参加者の自由な発言タイム。辻静佳さんからは、秋田で活動している「劇団かんじき」の東京公演のお知らせ。12月28、29日に下北沢のシアター711で公演されるそうです。東京在住の秋田の人は年末この時期、地元に戻っている人が多いかもしれませんが、この劇団員は普通に働いているので、年末の休みに東京公演をするのです。秋田弁の演劇。意外に秋田県人以外にも受けるのでは?年末秋田に帰れない人、試しに秋田人じゃない人を連れて行かれても面白がってもらえるかも。
テレビ番組などの企画制作をされている大山雅義さんは、明治時代、米国人の宣教師に育てられ米国に渡った秋田の女の子を巡る実話の映画化プロジェクトについて説明されました。
大山さんは、秋田中央図書館の前に立つ女性と女の子の像に興味を持ち、調べてみると、その女性の話が渡辺喜恵子さんの「タンタラスの虹」という本のごく一部に触れられていることが分かったそうです。このお話は、ハワイでは日本人学校の教材になっており現地の方々はよく知られているそうです。
秋田文化会議の世話役、浅利香津代さんは、その話を膨らませ一人芝居を長年にわたり演じてこられました。そして今、この話を長く後世に残したいとの思いから、大山さんたちが制作委員会を発足させ資金集めに取り掛かろうとしており、秋田にゆかりの人たちに支援をお願いしたい、と話されました。
武内暁さんからは、戦時中に朝日新聞の記者として大政翼賛報道の一端を担ったことにけじめをつけるため、戦後は職を辞し、横手市で「たいまつ新聞」を発行し続け2016年に亡くなったジャーナリストのむのたけじさんの業績を記念する紙媒体、ネットメディア、ドキュメンタリー映画などの地道な報道活動に光を当てる「むのたけじ 地域・民衆ジャーナリズム賞」の創設についてのお話がありました。戦争責任を明確にした数少ないジャーナリストが秋田にいたのですね。「たいまつ新聞」は新聞の本来の姿だと思います。また、武内さんからは、今年の11月に男鹿のなまはげがユネスコの無形文化遺産に登録される見込みであるとのお知らせもありました。
この日、文化という切り口で集まった首都圏の秋田の人たち、ユニークな活動をされている方も多く、なかなか接する機会のないそうした活動に光を当てていくことの重要性を感じました。同時に、参加者は皆、それぞれにふるさとのために何かやりたい、あるいは応援したい人たちでした。皆の力を結集して何かが実現できたらと思いました。
文・写真:竹内カンナ、写真:照井翔登